posted 月曜 8th 6月 2009 at 3:41 pm(午後) by ytakano
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今、なぜ注目される長野県のワイン
涙と笑いの繰り返し、長野県のワイン用葡萄の栽培の歴史
荒涼とした原野・開拓・わずかな成功・全盛期・時代遅れ・再生へのトライアル・挫折・
気象条件の好転・原産地呼称制度による追い風、狭い耕地、やせた土壌、その中で、
いかに収入を得るか、その原点から長野県の農業はスタートしています。
足りない部分は知識とアイデアでカバーする、これが長野県の農家の気質であり、
それは明治時代から今日に至るまで続いています。学問により身を立てるしかない状況は、
自然と高い理想につながり、それが葡萄栽培にも継承されています。
創成期
荒涼とした原野、最悪の土地だった明治初期の桔梗ケ原
明治時代、諏訪湖を中心とした一帯は、製糸工業が急速に発展しその機械を動かすために
動力源として石炭が大量に使われ、盆地である諏訪湖一帯は、
製糸工場の煙突から出る煙で空気が汚れ始めていました。
林農園の開祖である林氏は、健康が優れなかったことを理由に空気の悪かった岡谷から、
空気は良いものの原野同然の桔梗ケ原に開拓者として送り出されました。
当時、そこには人家は二軒しかなく、桔梗と松林だけの荒涼とした原野、
歴史的にも桔梗ケ原は戦場となった記録が残っている程度です。
桔梗ケ原に住んでいるとは人に言えない位、放置された原野でした。
開拓者として入植した林氏は荒地でも育つ桑(生糸生産の他の蚕の餌として使用)と
葡萄の栽培に着目します。
しかしながら、長野県内でも特に気温の低い同地は、葡萄さえも根付くことはまれで、
トライアルで植えられた品種は30種類にも及ぶといわれています。
その中で生き残ったのが、北米系品種のナイアガラとコンコードでした。
明治時代後期から大正そして昭和初期への飛躍の時代
ある日、突然、葡萄が売れだす
東京市場に葡萄を送っていた桔梗ケ原の農家に突然、転機が訪れます。
東京市場に葡萄を送っても送っても注文が来るようになり、
不思議に思った農家の代表が、東京市場に出向き買主は誰か調査していたところ、
当時珍しかったトラックが市場に横付けされ、葡萄を全部買い取っていくのを目撃、
人力車で後を追いかけて、その買主が赤玉ポートワインを作り始めた
寿屋(現在のサントリー)であることを突き止めます。
そして、寿屋と協議し桔梗ケ原を中心とした塩尻一帯が、
赤玉ポートワインの大原料供給地として発展していきます。
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